JF4IWD/QRPを偲んで

JF4IWDが,享年53歳で旅立って,一週間が経った。気持ちも少し落ち着いて来たので,彼との思い出を記しておこう。

1990年8月25日
初めてのQSOだったと記録にある。私のアパートのすぐ近くに住んでいるとのことで,話もはずんだことを覚えている。私が,津和野町から益田市に引っ越して来て4ヶ月目のことである。私は,開局4年目で2mSSBの移動運用にのぼせていた頃である。彼が,私のアパートへ持ってきてくれたMizuho MX-21と付属ロッドアンテナでの交信で,HF・QRPのおもしろさを知る。しかし,私自身はすぐには,その世界に入ることなく,3年後,一家揃って兵庫県へ転居となるが,彼の刺激もあって,ここでCWに出られる3アマと2アマの資格を取ることとなる。

2000年9月25日
兵庫県から益田市にもどって5年目,そして彼と出会ってから10年目。二人で,鹿足郡柿木村(現:吉賀町)に移動運用にでかける。目的は,私をCWデビューさせることであった。7MHzフルサイズの逆vダイポールを張り,準備はOK。ライオンの親が,我が子を谷底にあえて突き落とす,そんな例えをしながら,「絶対にこの恐怖の後には,素晴らしい世界が待ってますから!」と,私の勇気を奮い立たせる。心臓がバクバクする中で,初めての交信相手は,JR3KQJ中島OMであったと記録にある。(後に,関ハムでアイボール) 当時は,現在のようないわゆる,599 BKのような交信でなく,ラバースタンプQSOの時代であった。IWD局が,ラバスタのカンニングペーパーの文字列を一文字ずつ指で押さえながら,「はい,次,ここ。はい,次,ここ!送って!!」と励ます。1QSOで,30分近くかかったのでは,ないかと思う。汗びっしょりの中で,交信を終え,放心状態であった(であろう)。
それをきかっけに,後日,7MHz CWで50局ほど,ラバースタンプQSOをし,少し慣れた気分になったが,以後,パタリとHFでのCWをやめてしまう。(自分でも,なぜだか思い出せない)ただ,430MHzSSBerからは,CWも交信をお願いしますというリクエストがあり,それにはなんとか応える程度であった。やがて,私も仕事が管理職になり,単身赴任生活となり,アクティビティーがやや下がる。

2015年 JE4YMV なつかしの国 石見 移動クラブ結成
4年間の単身赴任を終え,私の職場がまた益田市に変わり,この頃から,IWD局やローカル局のCW熱が高まり,新クラブを結成。私も心機一転,縦ぶり電鍵をやめ,パドルに変更し,CWへの再デビューをはかることにした。初めての移動運用は,浜田市の道遠坊公園でのデビューであったと記憶している。IWD局が温かい眼差しで,指が震えるパドル操作を見守ってくれたのが,懐かしく思い出される。
この時期は,もう599 BK交信の真っ盛りで,復帰しやすかったこともあるかもしれない。次第にCWでの移動運用も増えていくことになる。
彼が,こよなく愛した大浜海岸へは何度移動運用にでかけたことであろうか。定番のパスタと赤天で海風を受けながら,のんびりとすごした日々が懐かしい。

体調不安
JE4YMVの結成時には,IWD局は,すでに人工透析というハンディーがあった。しかし,持ち前の明るさと話題の豊富さで,私たちを心配させるどころか,いつも楽しませてくれる存在であった。
ただ,忘れられないのは,「自分が,もしかの時には,酸素ボンベはこういうふうに使ってください!」とレクを受けた時は,ちょっとショックであった。心肺機能の異変もありながら,移動運用に付き合ってくれた。命懸けの移動運用とは言えないまでも,くよくよせず,人生を一緒に楽しんでくれる彼の存在は,私にとってかけがえのないものであった。

最後まで好奇心旺盛
私自身のCWのスキルが少しずつアップするにつれて,それをいかしたサテライト通信などにも興味を持つようになった。IWD局は,ずいぶん前から興味を持っていたようで,一緒に遊びましょうとムードメーカーとなった。彼自身もサテライト用のアンテナを自作していた。それだけではなく,D-Star,デジ簡や1200MHzでの運用などなど,ローカル局へ様々な刺激を与えてくれた。
昨年,秋に彼は,新居を改築し,HFアンテナの張り方や1200MHzのアンテナ設置など,あれこれ希望を持って,楽しく話している矢先の訃報だけに,いたたまれない。

ありがとう JF4IWD/Toshi de JG4JIS/Mamo

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